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神武天皇が最後に上陸した場所は?

 「神武天皇最終上陸地」はどこか、ご存知でしょうか?

 神武天皇が良き地を求めて日向の地を出立し、大和(奈良県)を目指し東征されます。瀬戸内海を通り、大阪から大和入りを図りますが、ナガスネヒコに迎撃され長兄の五瀬命(いつせのみこと)を失います。日神の子孫が太陽に向かって(東に向かって)攻めるのは天道に逆らうことになる、として敵の後背を狙うべく、海路にて紀伊半島を回り熊野の地に向かいます。そして熊野では、神邑(みわのむら=和歌山県新宮市 熊野速玉大社)に到り、天磐盾(あまのいわたて=新宮市の神倉神社)に登ります。

 それから更に海上行軍中、暴風に遭い次兄の稲飯命(いなひのみこと)と三兄の三毛入野命(みけいりののみこと)を失います。そして、「熊野の荒坂津(あらさかのつ)、またの名は丹敷浦(にしきうら)」に上陸。そこで丹敷戸畔(にしきとべ)という者を討伐され、陸路で大和を目指します。

 

 さて、神武天皇御一行が、最後に上陸し大和へ陸路をとった地・荒坂津。この場所には諸説ありますが、有力な場所として2つを紹介します。

①二木島・楯ケ崎(三重県熊野市二木島)【写真①】

 本居宣長の養孫である本居内遠は、『紀伊続風土記』の編纂者のひとりとしてこの地を上陸地と断定しています。

 二木島湾の東には神武天皇の三兄・三毛入野命を祀る阿古師(あこし)神社【写真②】が、西には次兄の稲飯命を祀る室古(むろこ)神社がそれぞれ御鎮座され、昔はここが志摩の英虞郡(あごぐん)と熊野の牟婁郡(むろぐん)の境目とされたようです。

 二木島湾の入口には、三重県指定天然記念物の一大岩塊・楯ケ崎(たてがさき 写真①)があり、見るものを圧倒させます。また、近くには千畳敷と呼ばれる広い場所があり、 伊勢大神と熊野大神が酒盛りをしたという伝説があり、晴れた日には熊野灘を見渡すことができます。以前ここに「神武天皇上陸碑」がありましたが伊勢湾台風で倒壊。令和元年に岬の付け根の国道311号沿いに「神武天皇最終御上陸地碑」【写真③】が建立されています。

 

②錦浦(三重県度会郡大紀町錦)【写真④】

 本居宣長は『古事記伝』において大紀町の錦浦(にしきうら)説を唱えています。御一行は錦浦から上陸し、ひと山越えて大杉谷もしくは高見山の山道を経て吉野・宇陀(現・奈良県)に到ったと推察しています。

 大紀町錦という土地は古墳が複数存在し、縄文や弥生時代の土器、三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)・海獣葡萄鏡(かいじゅうぶどうきょう)など銅鏡が出土するなど古代から開けた土地であることが分かっています【写真⑤】。また、古代から近現代まで海産物を宇陀地方へ出荷した魚の道が存在し、平城京出土の木簡に「二色(にしき=錦)郷」と記された荷札が出ているそうです。

 また、他にも錦港近くの高台には神武台公園があり、神武天皇が休まれたという御座石【写真⑥】などもあります。

 

 楯ヶ崎へ実際に行ってみて、遊歩道を1時間ほど歩いた後の千畳敷は本当に歓声を上げるほど清々しい場所でした。他に遊覧船(要予約)もあり日本版「青の洞窟」や海金剛(東尋坊より高い絶壁)など海上でしか見れない景色が見れるそうです。

 神武天皇上陸地も、その後のルートも諸説紛々あり興味深いです。

 楯ヶ崎も錦浦も交通の便はいいとは言えませんが、古代ロマンを感じてみてください。

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