悲恋の逃避行と謎の殺害現場

 仁徳天皇の時代(仁徳天皇40年2月)、ある悲恋の話が『日本書紀』に記載されています。

 あるとき仁徳天皇は雌鳥皇女(めどりのひめみこ)に5人目の妻になるよう求婚しますが、求婚の使者である隼別皇子(はやぶさわけのみこ)と恋に落ちます。雌鳥皇女は天皇の求婚を断ったうえに、隼別皇子と謀反をおこすような歌を詠んだことで、天皇の怒りを買い追われる身となります。

 二人は伊勢の神宮へ逃げるため、奈良県の宇陀に到り「素珥山(そにやま)」で追いつかれそうになるも、何とか逃れることができます。しかし、ついに二人は追跡者に捕まり「伊勢の蒋代野(こもしろの)」で殺害され、二人の遺骸は「廬杵河(いおきのかわ)」のほとりに埋められた、という話です。

 素珥山とは現在の奈良県曽爾村(そにむら)の山のことを指し、廬杵河とは家城川(いえきがわ)つまり現在の三重県津市白山町の家城のあたりも流れる雲出川(くもずがわ)のことです。実際、津市白山町北家城の雲出川北岸にはかつて土地の方が「夫婦塚」と呼ぶ古墳があり、この悲恋の二人が葬られた場所だと伝えています(残念ながら現在、墳丘は削平され耕作地になっています)。

 さて、それでは「蒋代野」とはどこでしょうか?

 三重県北部の菰野(こもの)町説や名張市薦生(こもお)説もありますが、家城地域からは隔たりがあり、理屈に合わないように思います。

 津市白山町八対野御鎮座の八ツ山神社の『八ツ山神社明細書』には、八対野(はったいの)という場所は古代の地名を蓴代野(はくたいの=ミョウガの生い茂った原野)としていたがいつしか「はったいの」と訛っていった、と記されています。そして、蓴代野こそが蒋代野のことではないかという興味深い説があります。蒋代野とはマコモが生い茂った原野という意味で同じような荒野で、字も何となく似ています。八対野と夫婦塚は比較的近く理屈も合います。

​ また、八対野には芋が野(いもがの)という所があります。これは妹が野の当て字で、ここが皇子皇女の殺された場所とする説もあるようです。

 

​ この物語には後日談があります。

 天皇が皇子皇女の追討の命令を出した時、皇后は死体を辱めたり物を盗ってはいけない厳命します。

 追討を命ぜられた吉備品遅部雄鮒(きびのほむちべのをふな)と播磨佐伯直阿俄能古(はりまのさえきのあたひあがのこ)が皇子皇女を殺害し、都で天皇に復命したとき皇后は雌鳥皇女の手足につけた玉(装身具)を見たか?と尋ねます。二人は見ていない、と答えます。

 この年の収穫を祝う大宴会で、臣下の妻たちが宮廷に参内し、お酒を賜る行事がありました。そのとき皇后は見覚えのあるきれいな玉を見かけます。その玉は雌鳥皇女が身に着けていた玉に似ていたのです。よくよく調べると阿俄能古の妻のものと分かり、阿俄能古は取り調べを受け皇女の死体から玉を盗んだことを認めます。皇后は死刑にしようとしますが、阿俄能古は領地を献上し死刑を免れた、ということです。

 この話は『古事記』では少し違った内容で載っています。

 興味のある方は、それぞれ『古事記』『日本書紀』を読んでみてください。 

​【八ツ山神社:三重県津市白山町八対野2470】

参考文献:白山町郷土史編集刊行委員会『三重一志白山町文化誌』白山町教育委員会、昭和48年

​     色井秀譲 著『白山町今昔噺』白山町教育委員会、昭和48年